沖縄戦で起きた集団自決に関する教科書の記述で、「日本軍の強制があった」という表現に検定意見が付けられた問題です。先週末に沖縄では大規模な集会が行われ、記述の復活を求める声が一層高まりました。そうした動きを受けて、町村官房長官が記述の訂正・修正の検討を、渡海文部科学大臣に指示。渡海大臣も「沖縄県民の気持ちを受け止め、何が出来るのか検討する」と表明しました。
沖縄で様々な人に取材してきましたが、当地では集団自決に軍の関与があったことは「常識」とされています。自決の命令・強制があったか否かについては裁判にもなっていますが、手榴弾を配布したことなどからも、少なくとも「関与」があったのは否定できないだろうというわけです。戦争の末期に、自分の肉親に手をかける、互いに命を断ち切るという悲惨な出来事が有ったのは事実で、その背景になにがあったのかをぜひ知って欲しいという沖縄世論はひとしお。県議会や市町村議会による再三の抗議決議、そして週末に行われた県民大会の結果、その思いがようやく国に届くのか、という段階に至ったわけです。記述について再考することは当然といえます。
ところでこの問題、何が歴史的事実かという点とは別に、重い問題をはらみます。それは教科書検定のありかたです。私は文部省の担当記者として3回にわたり、検定を取材しました。当時から文部当局は、執筆者側に当局が申し渡す「検定意見」は、「現在の学術研究の状況に照らして」「審議会での審議による」といい続けてきました。つまり、記述の当否を判断する主体は文部省ではなく、客観的な専門家・研究者である、というわけです。検定の客観性・独立性は100%担保されているという理屈ですね(実質はそう言い切れませんが)。しかし今回のケースでは、集団自決に関する記述への意見は、文部科学省の教科調査官が原案を作り、審議会では議論のないままお墨付きを与えていたことがわかりました。実質的に文部科学省が主導したということになります。審議会の形骸化は否めません。検定段階での行政の介入、政治的介入の余地が否定できず、検定の客観性を疑わせることになります。
さらに、「沖縄の気持ちを汲み取る」というかたちで、今になって記述の修正を閣僚が言い出したわけですが、この一声で記述が実際に変わるというのも、諸刃の剣という側面を持ち合わせています。なぜなら、「県民が望むから」という理由でなくとも、教科書の記述に政治が介入する恐れもあるやりかただからです。同じやりかたで「県民が望まない」変更もあり得る、ということにつながりかねません。となると文部科学省が繰り返し主張してきた教科書検定の「客観性」「独立性」とはいったい何だったのか、ということになってしまいます。
実際には、教科書会社も営利企業である以上、検定が控えているとなれば一定の「自主規制」をしながら、あるいは政治的状況に配慮しながら執筆編集しているのが現状。ならば執筆の時点では政治的な影響から完全に自由に書けること、あるいは検定意見を付ける段階では政治的な影響を完全に排除すること、それらを実現するのが本来の解決策だと思うのです。
投稿者 近野宏明