阪神淡路大震災からきょうで12年です。6400人あまりの犠牲者の霊を慰める式典がことしも行われました。改めて、亡くなった方々のご冥福をお祈り申し上げます。
震災のとき、私は卒業を控えた大学4年生でした。卒論もメドがついたころ。日本テレビへの就職も決まっていて、新しい住まいに引越した翌日だったと思います。朝、テレビをつけて飛び込んできたのが、神戸の空撮映像。中層階が潰れてしまった市役所のようすです。一瞬、どこか海外での大地震かと思い、それが神戸と知って戦慄が走りました。
神戸には高校の同級生も何人かいます。安否を知ろうにも引っ越し直後で電話はまだ繋いでおらず、駅前の公衆電話に走って何度もダイヤルしたのです。ようやく無事を確認し、先方の希望するところに無事の伝言をしたのが、本当についこの間のことのようです。
発災から2週間ほど経って、その春から会社の同期となる友人から連絡がありました。「近ちゃん、報道の仕事を希望するなら、神戸の現状を知っておくといい」という電話です。彼は神戸大学の学生。水道と電気がようやく復旧したアパートを拠点に、ボランティアをしに来てはどうかという申し出でした。もう一人の同期(となる友人)と一緒に、アパートにお邪魔して寝泊まりし、灘区役所でボランティア登録をして活動しました。
避難所を巡って独居のお年寄りに声をかける。話し相手になり、困っていることが無いか聞く。すぐに解決できることなら、そのまま解決に動く。という内容です。グチャグチャに倒れた室内の家具をもとの位置に戻したり、手の届かないがれきの下にある貴重品を取り出したり。決して特殊な技能を必要とする作業でなくても、若い男手がないと出来ないことが意外に多いのです。そんなときは特に、役に立ててよかったと心の底から感じました。
声をかけても沈んだ表情に全く変化を見せず、ぽつんと座って塞いだままの方たちも大勢いらっしゃいました。自分の祖父母と同年代のおじいちゃん、おばあちゃんです。老境に及んでなぜこんな酷い仕打ちを・・・と思うと、私もかけるべき言葉を失いました。あの方たちはその後の12年をどう過ごされているのでしょうか。
ボランティアを通じて、うち解けた仲間や被災者の方たちには、自分が春からテレビの仕事に就くこと、とりわけ報道に携わるのを希望していることを話しました。そのうえで、震災に関するテレビ報道について、要望や意見を伺いました。被災地のニーズには応えられなかった部分が沢山あることが、実体験を通じてひしひしと伝わってきます。皆さんの思いを書き付けたシステム手帳のページはあっという間にいっぱいになりました。そのメモはずっと手帳のファイルから外していません。「報道の仕事に就くことができたら、私たちの言ったこと忘れないで頑張ってよ」と、被災地の皆さんに励まされてしまい、今思い出しても身が引き締まるばかりです。
取材者として、伝え手として、テレビ報道が最も必要とされるときにどれだけの放送を送り出せるか。私にとってその原点となったのが、神戸での体験でした。大災害・防災に関する勉強は、今も続けています。12年前に神戸・灘で出会った、お名前を伺うこともできなかった大勢の皆さんに、この場を借りてご報告申し上げます。
投稿者 近野宏明