義眼から流れた涙

(2008/05/28)


 

独立の重み、わかりますか?」

コソボの同僚に、そう聞かれました。
それは、騒がしい音楽と人々の叫びがあふれる中でのことでした。ことし2月。
旧ユーゴスラビアの最後のパズル」とも言われるコソボ独立が宣言された夜でした。プリシュティナの街は喜びの渦の中にあり、堂々と「NEWBORN」という看板が飾られるなど、かつてと様子は一変していました。
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コソボ取材を切望してきた「きっかけ」ともいえる一家に出会ったのは、8年半ほど前でした。当時入社2年目の私は、1人でカメラを手に石川県・金沢の病院に少年と家族に会いに行きました。 コソボ紛争でガンの目を治療できなかったアルバニア系の少年が、現地を訪れた日本人の上田医師(AMDA)に救われて来日していました。

少年の名前はネジール君。そしてお父さんとお母さんの3人家族は、当時、治療を受けながら優しい金沢の人々に支えられていました。時に見せる表情には不安、そして遠い祖国を思う気持ちが伝わってきました。ネジール君はほとんど泣かず、まるで「ナゼ自分が日本に居るのか」理解をしていたかのようでした。傍らには心配そうな「お母さん」の姿がありました。お母さんは毎晩、息子の隣で小さくなって眠り、朝になると窓からこもれる朝日を見て、祈りをささげていました。「息子の目が治りますように」と・・・。異国で祈るその姿は、万国共通の母の強さ。、胸が熱くなったのを覚えています。

以来、「いつか来る」と見守ってきたタイミングで、家族と再会できたのは、「独立の日付」が見えたときでした。欧州、アメリカ、国連でと、舞台を何度も移しながら、何度も話し合われてきた「独立のための環境づくり」。「いよいよ」との情報をもとに、私はロンドンからパリへの引っ越しを終えた足で、現地へと飛びました。

ようやくコソボに着いた日、車で数時間かけて着いた民家で迎えてくれた彼らの第一声は日本語で、「こんにちは」でした。

「本当に良く来てくれました」と涙ながらに話すお母さん、そしてお父さん。
そして機材を全部持って家の中に我々を招き入れようとするネジール君。
一家は、変わっていませんでした。

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彼らは、8年前のものを見せてくれました。紙きれ、パンフレット、電車の切符。病院を巡回していた「ヤクルトのおばさん」にもらったという袋、折り鶴、絵本。ぬいぐるみ、名刺、地図。・・・・・全てが大切に保管されていました。家族にとっては「宝物」。一家の様子を見ていて、「日本の人に受けた優しさ」の重さを感じました。・・・・・恥ずかしながら、海外赴任3年目で、とても大事なものを思い出した気がしました。

しかし。

独立までにかかった時間」の分、日本で治療した義眼は小さくなっていました。義眼は成長期の少年には小さくなっていたのです。ネジール君の学校を訪問しました。ネジール君は大変な人気者でした。どこを歩いていても必ず友人が寄ってきます。友人らは「誰かが困っていたら必ず助けてくれる」、と話していました。

お母さんは、「日本の人たちのおかげです。日本の人たちに助けてもらったから、感謝の気持ちが植えつけられているのです」と話しました。)

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そのネジール君が、絶対にしない遊びがありました。
それはサッカー。2008 nejir school physics2.jpg

サッカーは世界中で大人気、コソボも例外ではありません。しかしサッカーをすると、ネジール君の「小さくなった義眼」は、はずみで取れてしまうかもしれないのです。子供ながらに学友には教えていない「義眼」。   
特別扱いされたくない、という子供の気持ちがありました。

そんなネジール君の状態を専門的立場から見守ってきたのが、ガズメント医師です。2008 dr gazmend office 4-2.JPG
金沢大学病院でネジール君が退院する前から研修を受け、そしてコソボに帰ってからも治療を続けている医師です。
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日本で譲り受けた機械を見せてもらいました。それは8年以上経っても、まるで新品のように大事に使われていました。「この機械で救った患者は数知れません。もっと救わなければいけない。メンテナンスは徹底しています」と話してくれました。

~そして独立~

独立の瞬間とは、想像を超えたものでした。

コソボの議会で「平和な国をつくる」と独立宣言され、建物の外に走り出た私は、町が一変したのに驚きました。

かつて、犠牲者の写真しか目立たなかった通りに、埋め尽くさんばかりの人びとが居ました。・・・・歩くのもやっとの状態でした。
中継のために走った先の「グランドホテル」。
そこは、かつて紛争で様々な舞台となっていたホテル、そこが喜びに沸く人たちで埋まっていました。あふれる声、喜び、エネルギー
住民の大半が「信じられない」と抱き合っていました。それは独立が「本当なんだ」とまるで自分達に言い聞かせているかのような光景でした。

コソボの外にいる家族に喜びを伝える人たちの電話が飛び交い、我々の電話回線もダウン。
中継も15分以上遅れる混乱(カオス)。(←後日、番組デスクの「寿命が縮まった」とのこと・・)。
しかし、混乱の中で「本当に独立したんだ」、と「音の大きさ」で実感したのを覚えています。

~~
そのあと、ネジール一家を訪ねました。
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運転をしてくれたのは地元の同僚。
道端で市民にふるまわれた「独立のケーキ」、それを家族のために大事に車のトランクに保管したまま、彼は「この喜びをぜひ世界に伝えて欲しい」と車を片道4時間走らせてくれました。・・・本当ならば「二度とない瞬間」を、大事な家族と過ごしたかったはずです。
20代30代の若者達は多くが「虐殺で親しい人たちを亡くした」犠牲者でもありました。若い彼らこそ、歴史を鮮やかに覚えているというのが、アルバニア系住民・セルビア系住民双方に多く居るのが「事実」です。

さて。
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独立を迎えたあと、一家は「踊り狂った」ようです。
そして深夜、お父さんと友人らは切々と語ってくれました。

「バルカンを分かるか」と。

何度も取材で聞いた言葉です。
それは、幾重にも民族や宗教が交差してきた場所での「生きる感覚」でした。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

コソボは、セルビア正教にとっては宗教上大事な場所であり、またアルバニア系住民にとっては安住したくて住み着いた場所。そこに紛争が重なり、泥沼化。さらに当時のミロシェビッチ大統領によって行われたアルバニア系住民の虐殺に対して国際社会は非難。そしてNATO軍の空爆。
ユーゴ内でセルビア、モンテネグロ、クロアチアと独立していきましたが、コソボはセルビアの中にありながら国際統治下に置かれてきました。「セルビアの中での独立」は、行き場を無くしたアルバニア系住民にとっては悲願なものの、ロシアやセルビアにとっては許されないものでした。

実際、独立後、セルビアでは米大使館が放火される場面や催涙ガスに遭遇、警察に囲まれたり、声高く「コソボはセルビアだ」とする集会を多く見ました。

<写真は走り去る若者と遭遇した、ベオグラードの米大使館前>
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<そして、ベオグラードでの集会。「コソボはセルビアのものだ」の垂れ幕>
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セルビアでは多くのエネルギーを感じました。ナショナリズム高揚、そしてそれを上回る「やりきれない」という空気・・・・・・.
独立の数日後、かつての大統領・ミロセビッチ氏の墓は人を避けるかのように、ありました。

・・・・・・・・・・

独立については、「もう待てない」というのがコソボの立場でした。
独立前に単独取材に応じたセイディウ大統領は穏やかな表情のまま、「長い歴史から歩みだしたい。独立を妨げることは誰にも出来ない」と強い口調で話していました。
またUNMIK(国連)の面々も口を揃え「今、動き出さないと、さらなる紛争を招く」と話しました。さもなければ・・・と殺し合いの続いてきた歴史の重さを聞きました。

そうして欧米の支援をもとにようやく迎えたコソボ独立でした。
その夜、「独立式典の花火」が映し出されたTVの前で、亡くした家族、友人の写真を抱えている人たちがアルバニア・セルビア双方に、多く居ました。

・・・・・・・・・・

独立の重みに加えて、感じたこと。
それは遠い国での日本の存在でもありました。

コソボのネジール君一家は、「私達は日本の人に支えてもらいました。あそこまで親切な人々はあまり居ません。落ち込んでいるときは商店街に買い物をしに連れて行ってくれ、図書館で本を読んでくれました。そんな心遣いに、どう恩返ししたらいいものか。息子も救ってくれました」と話していました。そんな気持ちがうまく伝わっていければ救いです。

そういえば我々は毎回、首都から片道4時間かけて一家を訪れました。
何も言っていないのに家庭料理をつくって待ってくれていました。家庭料理は、異国で心に染みました。
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私も御礼日本食をつくりました。集めてきた材料は・・・・コメとしょうゆ、野菜にツナ缶。そこからチャーハン、ツナ入りオニギリという子供向けメニューと、卵焼きナスのお浸し、をつくりました。喜んで食べてくれました。
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再会した日、ある場所へと連れて行ってくれました。歩きながら、モスク(イスラム教)も教会(セルビア正教)も見える町で、いろいろなことを感じました。

「アルバニアのハンバーグを、ぜひ食べてもらいたい」と言われ、お父さんに店に連れて行かれました。イスラム教だというのもありますが、御礼をしたい人にはとことん御礼がしたい、というのがありました。「これは受け取ってください。それが我々の喜びでもあるんです」「こんな再会は普通、できないのだからそれを味わってください、また味わららせてください」、とのことでした。

最後の会計で、せめて分割しようとする私に、お父さんは「いいんです。本当に。私達が救われた命、それに比べたら、いくら支払っても足らないのですから」と繰り返しました。しかし「それは出来ない、どうしたらいいものか」と考えていると、ガズメント医師が私に「心は受け取ってください。でも別の形で返しましょう」と言いました。

そして。「今日、改めて感動しました。未来のために投資することを許してもらいたい」と話し、涙目で紙幣を差し出しました。「これは食事へのお礼では無く。ネジールの将来へのプレゼントです。」と。そして医師は「ネジール、何か欲しいものはあるのか?」という質問を投げかけました。

すると。ネジール君はしばらく黙り、「・・・出来れば、パソコンが欲しい。もし出来ればです。みんな持っているから」と口を開きました。父親の収入を気にして、絶対に今までは言うことのなかった言葉。その言葉が出たと同時に、ネジール君の目からは涙がこぼれ落ちました。「有難うございます・・」と泣いていました。手術でも滅多に泣かなかった少年が見せた涙。それは「義眼」からも流れていました。

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紛争は残酷で、解決できない問題が多くあります。
セルビア系住民の地域、そしてセルビアで取材していて、実に多くの事を感じました。
彼らの怒り、絶望。

実際、ネジール君と同じ年の子供をセルビア側でも取材しました。
「近寄るんじゃない」とのオーラをふりまいていた彼等に会ったのは、女性が叫ぶ集会でした。
彼らの大人びた顔つきは、忘れられません。
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目の前で知り合いが殺された場面を語った若者が「大事なことは過去ではなく、未来です」と話していました。

ネジール君の義眼から流れた涙も、希望であってほしい、と願います

冒頭の質問。
私は、、こう答えました。

「独立した国に生まれ育った私が、分かるというのはオコガマシイと思う。きっと、独立の重みは分かろうと思っても貴方達ほど分かることはできない。でも一生懸命、感じたことは伝えたいとおもう」と。・・・・・水で乾杯しながら「いったい今の日本に何が伝えられるのだろうか」、伝えられなかった幾つかの事への悔しさと共に、大きな課題を感じました。

今も課題がコソボでは「山積み」です。
独立の重み。「人」を通して見えたもの、それは日本にとって計り知れない、遠い話・・・なのかもしれません。しかし、遠いからこそ伝えたい。。。。。と思ってきました。

コソボ独立の際にコソボとセルビア、双方で見たものは、現実の中に生きようとする希望の力だと今も強く感じています。


海峡を越え

(2008/02/10)


 

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このたび海峡を渡り、ロンドン支局からパリ支局に異動しました。
あまりロンドンに留まることがなかったものの、あらゆる場面でイギリスの底力を実感しました。官民問わない実行力、情報力、外報力、政策力、人の歴史、そしてそこから・・・第3の選択にみえて、自己利益のためにベストな選択をできてしまう強かさがありました。

ところで。

イギリスといえば欠かせない話題である英王室の空気、にも触れてみたいとおもいます。

写真は、去年5月に出席させてもらった女王主催のお茶会(QUEEN’S GARDEN PARTY)です。皆、帽子を被る正装で現われるのですが、私は日本から持ってきた母の着物を着て、出かけました。

場所は、バッキンガム宮殿。宮殿の中を通り、裏庭にでると、そこには湖や森が広がります。
そこで行われるお茶会。出席するのは主に英チャリティー関係者や医療関係者、法律関係者、などです。

紅茶を手に会話に花を咲かせる・・・・・まさにアフタヌーンティー、人脈作りの場です。

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こうして大勢の人をひきつける・・・英王室の「力」について書いてみます;

その人気は・・・・イギリス人が飽きたといいつつも、タブロイド紙に載れば皆が釘付けになるように・・・顕在です。日本ではダイアナ元皇太子妃のことが最もよく知られていますが、彼女の没後10年にあたり、取材した際にも「人間らしさ」を感じることができました。

例えば、チャールズ皇太子は「田園好き」、ダイアナさんは「都会好き」という方向性の違い。2人があまりに違った事柄のひとつ、とされます。美味しいビスケットで知られる皇太子のブランドがありますが、その牧場を訪れた際、貴重な豚の繁殖現場を見せてもらいました。その丁寧な姿勢に農業への特別な思い入れを感じました。同時に、ダイアナさんが愛した服、遊びも見ることがありました。そこからさらに積極的に人々と同じ目線になって、自分の役割を果たそうと動いた、その熱意も彼女が手がけた事業を通じて感じました。別れていった2人ですが、孤独な部分もあったとされる彼女が、人のためにと動いていった背景・・・・それは突き詰めれば愛情に飢えていたのではないか、と言われるゆえんも、感じました。裁判などで実に様々な情報が今も出続けていますが、その人間らしい姿こそが、どこかイギリスの人にとっての王室との距離感なのだと思いました。

ウィリアム王子そして恋人ケートさん、あるいはヘンリー王子やチェルシーさん、彼らも皆、気さくでそして自然体です。ケートさんについてはパパラッチ報道の前から取材をしていて、異常なマスコミの熱気を感じました。ケートさんやヘンリー王子については、「おしゃれになった」、「こんな風にマスコミを撃退した」などで騒がれますが、2人とも、その「人間臭さ」がイギリス人に愛される所以だと感じます。

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さて。


お茶会で、途中から登場したのは、エリザベス女王。
一斉に皆が道を開けます。
毎度ながら、ニコリともせず、毅然としながらも必ずバックを手に持って歩く 姿には、品格と同時に可愛らしさを感じさせます。

そして、このとき私が感動したのは、またその人間らしい振る舞いでした。

お茶会では、お付きの人が適当に選んだ人たちが、女王と話す機会を与えられます。
たまたま目についた人と言いながらも、ボーイスカウト、インド系の官僚など人選は全体のバランスを考えて選ばれています。

女王は会う時まで、全く話す相手の素性を知りません。
お付きの人は2分前に本人から聞いた名前と職業だけを、簡単に女王に紹介した後は、会話に全く感知しません。つまり「放任状態!」なわけです。

が、女王は、あらゆる会話で対応していきます。その会話の引き出しの多さには、ため息が出ました。
しかしふと近くに居て、気がついたことがあります。

相手によってわかりやすいほど、話す時間がバラバラ、そして表情が違うのです。
例えば同年代の女性と話すときは長く、そして柔らかい表情、でも気の合わない相手には、すぐにカバンを持ち換えるなどして、さっと立ち去る・・・あっさりと会話を終えているのでした・・。

失礼ながら、「ああ、人間臭いな」と大いに感じました。

会話をした人たちからは
「こちらの仕事をよく把握していました」
「気さくに自分の体験談を話してくれ、びっくりしました」
「恐くなかったよ、自分の祖母みたいな接し方をしてくれた」
「肌が美しくてびっくりしたわ!」などの反応が。

自然な立ち振る舞いが、多くの人を魅了しているのでした。

という、優雅な時間・・・も稀にあったロンドン時代ですが、それだけでは物足りないものです。


下の写真で質問です。

Qこれはいったい???

答えはまた今度。


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海峡、国境を越えればまた違う世界があります。

人の苦しみ、喜び、目の前の現実・・・・・・それを、ぐっと味わいながら日本に届けられれば。そして願わくば、見た人の選択肢を広げられるような手法で、・・・伝えていければと思います。


ブット元首相、イギリスでの評判

(2007/12/27)


 

先ごろ、ロンドンで開かれたある会合。
英国駐在の外交官同士が、
こんなひそひそ話をしていたそうだ。

「ブットが帰国して大騒ぎだね」
「彼女か?あんなコラプト(腐敗)なのはいないぞ」

イギリスで話題のベナジル・ブット氏(54)。
パキスタン初の女性首相で、ことし、8年ぶりの帰国を果たした。

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「BB(ビービ)」の愛称もある華やかなキャラ。
亡命生活中も、ロンドンを拠点に幅広い交流があったが、
良くない評判も聞く。
もともと汚職を問われて祖国を去り、
スイスではマネー・ロンダリング罪に問われる身。
金銭スキャンダルの臭いが消えないのだ。

帰国のその晩に起きた自爆テロでは
140人の尊い命が失われた。
パキスタン政府は、暗殺の危険を再三警告し、
ヘリコプターをすすめていたが、
ブット氏は聞き入れず、地上の練り歩きを強行、
最悪の結果を誘発した。

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批判を受けたブット氏は
「待っていてくれた国民の前に
姿を見せない訳にはいかなった」と弁明。
現場で取材した私も、
もしブット氏が姿を見せなかったら
群衆の不満が治安部隊との衝突に
発展した可能性はあったと思う。

でもブット氏が、
市民をテロに巻き込む危険を承知で、
「凱旋帰国の演出」を優先したとも見える。
病院に犠牲者を訪ねたのも、どこか白々しい。

政治家は往々にして、表向きと実像が食い違う。
ブット氏のように派手で
大衆に人気があるタイプほど、
人物面の評価が低い例は多い。

しかし実像がどうあれ、
メディアを通じて大衆に訴える力は、
民主化闘争を仕掛けるのに何よりの素質だ。
ブット氏の場合はさらに、
海外の目を引き付けて民主化を後押しさせる
「広告塔」の役割も自認しているかに見える。

帰国の背景にはそもそも
ポピュラーなブット氏を利用して
不人気のムシャラフ政権にテコ入れしたい
アメリカ・イギリスの思惑がある。
欧米PR会社も一枚噛んだ巧みな広報戦略。
実際、英国スカイニュースは、
外報部長以下特別班で臨む異例の扱いだった。
「なぜ、今ブットなのか?」
の疑問への答えも見えてくる。

日本の政治を取材していた私には、
小泉元総理が田中真紀子氏を味方につけて
自民党を崖っぷちから救った構図とも
重なって見える。

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核兵器とテロリストを同時に抱えた
パキスタンの政局は、アメリカと、
サウジなど周辺諸国の思惑もぶつかり、複雑だ。
ブット氏を評価するにも
ひとつの物差しでは計れない
苦々しいリアリズムに満ちている。


スペインの風

(2007/10/31)


 

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振り返れば6月のドイツのサミットの話です。環境問題も主なテーマであったものの、実際の作業は各国の利益や方法をめぐり難航を極めたようです。欧州にいる身としてはナゼ欧州では環境への意識がここまで進んでいるのかに興味を持ちました。そして環境対策とは何なのか、どうしたらいいのか目に見える形で何かできないかを考えました。そこで出かけたのが、4月、スペインです。
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「ドンキホーテのふるさと」スペイン。昔から風力を利用していた国です。

そこの「EUモデル地区」ナバラを目指しました。

ここは自治政府があることもあり、独立した動きを見せています。
街の中にはバイオエネルギーを利用したバスが全体の4割。
研究所も充実していました。
地熱、太陽熱、ゴミ利用熱、風力、バイオエネルギーを研究し利用する様子を取材しました。
(数回に分けて放送しました)

「環境に優しいエネルギー」を利用するためには、その地域の特性を把握することがまず一番です。
スペインらしくオレンジなども利用すべく研究がすすんでいました。
また太陽、そして風もあります。

ですが「さすがだ」とおもったのは、風力発電機の下で穀物が育てられていた点です。
ほか、そこで自然に生えた植物の中にも、香辛料を発見。
スペインの風は、いい香りがしました。
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「共存」のためには地元の理解が必須ですが、それは政府の柔軟な方針があって実現するものだと思いました。・・・・将来、ほとんどの電力を再生可能な自然エネルギーでまかなえる、というこの地域。
話を聞いていて、「住民と企業を一緒に巻き込んだ積極的な政策」が原点だとも感じました。。
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さて。

取材の裏側を書いてみます。

各国によって取材の仕方は異なり、毎回驚きます。
スペインでは現地の人たちの陽気で熱心な姿に、文化を感じました。

撮影はハードで
夜まで取材したあと、次の取材場所への移動は車で7時間ありました。
着くのはだいたい朝です。

その間、気づいたこと:
①どんなに遅くなっても決して夕飯は抜かない。~深夜1時から高速でのレストランで食事をしました。
②とにかく陽気。~いつも楽しんでくれます。

そしてフラメンコの話になると止まりません。

深夜2時、移動中の車内の質問。
「フラメンコ歌手トマトの子供達のグループ名をあててみて」と聞かれました。
何だと思いますか?

答えは・・「ケチャップ」。

ずっと裏話で盛り上がっていました。
こんなお茶目なスタッフに、撮影中また機転を見せられました。

それは「ドライブショット」と呼ばれる「移動映像」を撮っていたときのことです。

カメラマン兼ドライバーという1人2役を大体、お願いしているので、
撮影中は私が運転をしようと思ったら・・・・車はマニュアルの車。
オートマ限定という私にとっては厳しい・・ことに。
そして助手のスペイン人の男子学生は免許がないと言い・・。

どうしようかとカメラを構える準備をしていたら、なんと!カメラマンが警察に電話をし出しました。

警察官らは、ミニパトカーで到着。
なんでも、「この人達に運転してもらうのさ!」とのこと。

そこに、このデコボコなコンビが乗り込み、警察の運転する車で撮影をしてきてくれました。
思い切り笑って到着。
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撮影はハードでも、楽しく進みました。
スペインを知ってもらうためには苦労をいとわない。
取材対象者はもちろん、カメラマンらを通しても、その姿勢に欧州で吹く「スペインの風」を感じました。

最後に。
途中、こんなものも発見しました!
スペインから、来年のサミット開催国でもある日本へ、風が何か吹くことになればと願っています。
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決戦持ち越し!ブラウンVSキャメロン

(2007/10/08)


 

「おや、今年はちょっと違うな」

9月末、港町ボーンマスで開かれた
年に一度のイギリス労働党大会。
ブラウン政権になって「何か」が変わっている。
だがその正体はすぐにはつかめない。

前のブレア政権下では、去年も一昨年も、
会場に到着すると決まって何かこう、
「すさんだような」空気を感じた。
警備は異常なまでに厳重。
スタッフもピリピリしていて取材対応もすこぶる悪かった。
首相のスピーチを
会場の外のモニターで聴かされた事さえあった。

だが、今年はスタッフも少し柔軟だ。
外国メディアの場内取材チケットは限られていて、
日本の分は自動的にNHKに回っていたのだが、
担当者に懇願するとNNNも直前に入場を許された。

ブラウン首相が登場すると場内は総立ちで拍手。
生真面目路線が功を奏し
労働党の支持率を劇的回復に導いて今や救世主扱い、
解散総選挙前倒しの観測さえ出て
求心力が猛烈に高まっていた。

さてその演説は予想通り、
ジョークの一つもない堅物路線に終始。
内容は教育、医療、犯罪対策といった国内問題ばかりで
前任者のように華々しく外交を語ることもなく、
世界をリードする野心はうかがえない。

スピン=情報操作がお得意と批判されたブレア時代との決別。
それこそ、イラク戦争で失った大衆の信頼を
とり戻すテコとなっているのだ。

「いやいや本当はブラウンこそスピンの天才だ―」

保守党影の文化相、ジェレミー・ハントが
うんざりしたように批判していたのを思い出す。
「ブレアは見るからにパフォーマンス好きだが、
ブラウンは演技を演技と悟らせないで真面目に見せてるのがすごい」

タイムズ紙の政治部長も
「ブラウンはプライベートでは短気で近寄りがたいが、
テレビでは違うイメージを作ってる」と語っていた。

事実ならウワサどおりの相当な戦略家である。
党大会の空気が違って感じたのは、マスコミも含めて
彼のイメージ戦略の魔法にかけられていただけなのかも知れない。

その日は奇しくも日本の福田新政権の発足前夜。
「カリスマ性はないが政策通」「身内に厳しく秘密主義」
とのブラウン首相の評判は、
福田首相とも微妙にダブるのは興味深いが・・。

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そして、翌週の今月3日。
ブラウン効果に打つ手がなく、
もはやこれまでとも言われていた
野党保守党の若手党首、デビッド・キャメロンが
逆転のカウンターパンチを放った。

政治生命さえかかった党大会のスピーチを、
原稿なしで熱弁すること1時間。
衰えぬ政権担当意欲が大衆の心を動かしたか
ガーディアン紙の世論調査で保守党の支持率は
労働党と同率の38パーセントまで回復。
劇的ともいえる復活だった。

マスコミがブラウン一色だった時、
ロンドン経済大の専門家が言っていた。
「キャメロンが今あえて黙っているのは、
スピーチのインパクトを押し上げる作戦だ」
その通りになった。

結局、6日、
ブラウン首相は早期の解散総選挙を否定。
支持率の拮抗を受け、ギャンブルは避けた格好だ。

狡知の限りを尽くした二大政党の対決は、
来年以降に持ち越された。
キャメロン演説に先立って
保守党が打ち出した相続税減税政策が、
ブラウンのイラク段階的撤退本格化等のアナウンス効果を
上回ったとも指摘される。

前政権時代の悪名高き「スピン」は
敬遠されるかにも見えた英国政界。
だが、見えざる精緻なメディア戦略が
幾重にも張り巡らされ、
なおマスコミを翻弄しているように見える。


変化のしるし(法廷のカツラ)

(2007/07/25)


 

田舎町に物々しい警備がありました。そこはイギリス・ブレア首相(当時)の地元セッジフィールドのトリムドン村。
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ロンドンから4時間強。
まっすぐの道をひたすら走った先にある集会所前には英メディアが数社、中継車を構えています。
支持者に話を聞きながら、私も待ちました。観衆が声をあげる中、ブレア氏が到着。
・・・・正直、そこまでは、イギリス人に囲まれているのに「**県」にいるのでは?との錯覚を持つような、日本の政治の風景と変わらないものを感じていました。

しかし。

ブレア氏は演説を終えると観衆にしっかりとアピール、そして投げキスをして会場を去りました。
うう~む。
反発もある中での退任にもかかわらず、「最後の去り方」、その演出の「力」を肌で感じる場面でした。

さて。

6月27日、イギリスで10年ぶりに首相が変わりブラウン政権が誕生しました。

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ブラウン首相は、フラッシュの中、緊張した面もちで首相官邸ダウニング街10番の邸宅に入りました。


じわじわと変化が起きています。


ひとつは司法制度

そんな中、BARRISTER(法廷弁護士)協会の会長が、弁護士らが集う伝統あるパブで語ってくれました。

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「ブレア政権では後半、現場との相談が欠けた感じがする」と。

→例えば;MINISTRY OF JUSTICE という全く新しい省庁が今年5月に誕生しています。
 HOME OFFICE(内務省)から独立したものですが、「時期」について反対意見がありました。
 政権移行前という中途半端な時期ゆえに業務が中途半端になったとの批判もあります。

だからこそ・・・・・「ブラウン政権には期待する」と言うのです。

緻密な相談があるからこそ、改革を歓迎できる・・との弁護士の声も聞かれました。

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「司法制度改革で日本も思い切ったことをしているね」と声をかけられますが、イギリスも同様に、大きな変化があるのだと感じました。

なぜこれだけの改革を?と聞いてみると「変化が好きな時代だから」との一言。
目に見える変化」をしたいものだと、説明してくれました。

ということで、三権分立のための改革、立法の仕方のバリエーションなど、改革案が練られています。

しかし、古き伝統も、改革されなければ、目に見えるとは言えません。

そうして出てきたのが「カツラ」です。
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イギリスの裁判所の法廷ではカツラが被られています。私も実際に傍聴して見てみると、驚きました。
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今では映画や絵画でしか見ないと思っていたら大間違い。
13世紀からある!という法律事務所が並ぶ古い通りを歩いていると、・・・・カツラを被った不思議な出で立ちの人たちが歩いています。
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古くはフランスから輸入された文化ですが、イギリスらしく今も伝統を残しているのです。

「しかし。これに意味があるのか?」という疑問が当然ありました。
・・・・ということで、4年前から議論されてきたものの、イラク戦争で中断されていました。

それが、とうとう廃止の方向が固まった、との情報を聞きました。来年1月から廃止されるとのこと。
そこで本社に電話をし「桂です。カツラが無くなるって話をやろうと思っています」という、通じにくい連絡を入れました。

そして知り合いに電話をし、カツラを見せてもらいたいと御願いし、備えました。

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快く応じてくれたのはローゼン弁護士。国際紛争などを手がけています。

綺麗な箱からカツラを取り出してくれました。
もう30年も使っているといいます。

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美しい艶のあるカツラ・・・馬の毛だとか!

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当時で350ポンドだといいます。(対円が1ポンド250円となっているため約9万円!)
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氏の感想;
暑くてね~あと長くつけていると頭が痛くなるんだよ」

なるほど!

そして。

「国際的な、ビジネスの法廷ではふざけた印象を与えるのも事実だ」と言います。

たしかに。

景気のよいロンドンではビジネスの話が多くなっているだろうから、「不都合だ」と感じるのは当然です。

私も被ってみました。

正直、暑かったし、チクチクしました。夏なら汗をかいて、かぶれると思いました。
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カツラ屋を訪ねてみると・・・実に綺麗にカツラが並べられていました。法廷弁護士のもの、裁判官のもの、などそれぞれ特徴があります。高いものでは40万、50万のものもありました。
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カツラ屋いわく「全て手仕事なのだから当然の値段だ」とのこと。
カツラを眺めていて、法廷弁護士に憧れる若い人にとっては、職業の象徴ともいえるものなのではないか、とも思いました。

そうして文化は残ってきたのかもしれません。カツラがファッションだとされた時代から200年余り。今も残しているのがイギリスらしい。
もっとも、ここで現実的意見も付随してくるのもイギリスらしいのです。

「残した方がいい」「カツラは武器なのだ」との意見が聞かれました。

いったい何だろう?・・・・と思う方、下の写真を見てみてください。↓

複雑なそして凶悪な事件が多くなるにつれ、カツラは大いに個人の特徴を隠すのです。

テロの裁判も多くなり、今では返ってこれが有効となっていたわけです。

確かに・・髪の毛だけで人の印象はだいぶ違います・・。
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若い法廷弁護士にとっては若く見えない、という「年齢」さえ隠す効果もあるとか。
・・・・・・ということで、民事法廷でのみ廃止し、刑事法廷では残ることになりました。

だからこれからもロンドンの法律事務所街や、裁判所で見ることが出来ます。

しかしこの「カツラ」・・・・新政権になり、風通しをよくする「変化のしるし」では、と感じました。

これからどんな変化が見られるのか、楽しみです。


「産むための選択」代理母制度

(2007/07/11)


 

去年秋から今年の春にかけて英国の「代理母制度」を取材しました。英国では90年以降、手続きさえすれば、代理出産で生まれた子供を「実子」とすることが認められています。

いきなりですが、代理出産で産まれた子供を見たことありますか?

ということで、訪ねました。
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こちらはオリバー君とアリスちゃん、15歳の双子です。
(年齢が、いかに前から制度があるかを物語っています)
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「母は1人で混乱はないんだよね」「生まれてよかったです」の言葉に、どっきりしました。
高校に通う彼らは、授業で代理出産についてプレゼンテーションをしたりしているそうです。


いったいどんな思いで他の女性に出産を依頼するのか。

母親リンダさんは、長い不妊治療の末~AT THE END OF THE DAY~という表現で、
最後の手段として、「切実な思いで」選んだことを強調しました。

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養子をすればいいと言われたこともあるが、やっぱり自分の子供が欲しいという自然な思いだったといいます。

「でも。こうした制度は長いこと闘った末にこの国で実現しました、運動は動かなければ始まりません」、そうリンダさんが話したことも印象的でした。

そして。

「とにかく代理出産で肝心なのは、代理母との信頼関係だ」とのこと。

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過去の例では、10か月もお腹の中に居た子供を手放したくないと気持ちの変わる代理母も居て裁判になったりしています。・・・・いくら進んでいるとはいえ、産んだ女性が最初の段階で、母親であることには争いはありません。

出産後に手続きをするわけですが、それは当人同士の信頼関係でやるもの。法的義務はないため、余計に2人の間の関係が大事なのです。
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リンダさんは、友人関係を続ける努力をしたといいます。

彼女が話した言葉の重みは、代理出産を支援する団体の会合に通うと、さらに実感できました。
そこには多くの女性が集まっていました。
(中には男性の姿もあり、家族単位で行動する風景に日本との違いもちょっと感じました)

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中に、涙ぐむ女性が居ました。彼女は、「代理母」の側でした。
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妊娠したわけでもないのに、代理出産をするためには薬を飲んだりして、体調が悪いのだといいます。

さらに、「困っている旦那の親戚に依頼されたから断れなかった」、「でも旦那は複雑な表情をする」・・・そう話し、いかに大変な作業かを語ってくれました。

他にも「人生で自分の出産より遥かに大変だった」という人も居ました。

英国の代理出産制度は進んでいるといわれていますが、それでも多くの問題点や悩みを抱えていると感じました。

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1)依頼する側と依頼される側の間に法的拘束力はなくトラブルになる可能性が残っていること
2)補助制度が整っていない   など・・・まだ不備があります。

また、アメリカと違って「商業主義」を禁止しているからこそ、
「必要経費」以外は負担しなくてよいとされていますが、
逆に;
3)情報が不足し社会の認識も低い、との声も聞かれました。

これらに対応するため、新しい法案づくりを検討したい、と専門家や法律家らからは話していました。

まだまだ少数派である家族のことを考える「懐の広さ」を感じました。

こうしたことは日本では、まだまだ先のことかもしれません。法律や制度も違います。

ただ、代理出産で生まれた子供、代理母、依頼した母、の3者の「笑顔」を見て感じたこと;
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それは素朴に同じ女性として、「選択肢」があるのはいいことではないか、ということでした。

英国もこれからまた変わろうとしています。
日本でも検討されていくといいなと・・思います。
向井さんのケースでの「最高裁決定」、その文面に込められた思いを見ても、改めて思いました。