義眼から流れた涙

(2008/05/28)


 

独立の重み、わかりますか?」

コソボの同僚に、そう聞かれました。
それは、騒がしい音楽と人々の叫びがあふれる中でのことでした。ことし2月。
旧ユーゴスラビアの最後のパズル」とも言われるコソボ独立が宣言された夜でした。プリシュティナの街は喜びの渦の中にあり、堂々と「NEWBORN」という看板が飾られるなど、かつてと様子は一変していました。
2008 new born !!.jpg

コソボ取材を切望してきた「きっかけ」ともいえる一家に出会ったのは、8年半ほど前でした。当時入社2年目の私は、1人でカメラを手に石川県・金沢の病院に少年と家族に会いに行きました。 コソボ紛争でガンの目を治療できなかったアルバニア系の少年が、現地を訪れた日本人の上田医師(AMDA)に救われて来日していました。

少年の名前はネジール君。そしてお父さんとお母さんの3人家族は、当時、治療を受けながら優しい金沢の人々に支えられていました。時に見せる表情には不安、そして遠い祖国を思う気持ちが伝わってきました。ネジール君はほとんど泣かず、まるで「ナゼ自分が日本に居るのか」理解をしていたかのようでした。傍らには心配そうな「お母さん」の姿がありました。お母さんは毎晩、息子の隣で小さくなって眠り、朝になると窓からこもれる朝日を見て、祈りをささげていました。「息子の目が治りますように」と・・・。異国で祈るその姿は、万国共通の母の強さ。、胸が熱くなったのを覚えています。

以来、「いつか来る」と見守ってきたタイミングで、家族と再会できたのは、「独立の日付」が見えたときでした。欧州、アメリカ、国連でと、舞台を何度も移しながら、何度も話し合われてきた「独立のための環境づくり」。「いよいよ」との情報をもとに、私はロンドンからパリへの引っ越しを終えた足で、現地へと飛びました。

ようやくコソボに着いた日、車で数時間かけて着いた民家で迎えてくれた彼らの第一声は日本語で、「こんにちは」でした。

「本当に良く来てくれました」と涙ながらに話すお母さん、そしてお父さん。
そして機材を全部持って家の中に我々を招き入れようとするネジール君。
一家は、変わっていませんでした。

2008 nejir house.jpg2008 kosovo nejir and me.jpg

彼らは、8年前のものを見せてくれました。紙きれ、パンフレット、電車の切符。病院を巡回していた「ヤクルトのおばさん」にもらったという袋、折り鶴、絵本。ぬいぐるみ、名刺、地図。・・・・・全てが大切に保管されていました。家族にとっては「宝物」。一家の様子を見ていて、「日本の人に受けた優しさ」の重さを感じました。・・・・・恥ずかしながら、海外赴任3年目で、とても大事なものを思い出した気がしました。

しかし。

独立までにかかった時間」の分、日本で治療した義眼は小さくなっていました。義眼は成長期の少年には小さくなっていたのです。ネジール君の学校を訪問しました。ネジール君は大変な人気者でした。どこを歩いていても必ず友人が寄ってきます。友人らは「誰かが困っていたら必ず助けてくれる」、と話していました。

お母さんは、「日本の人たちのおかげです。日本の人たちに助けてもらったから、感謝の気持ちが植えつけられているのです」と話しました。)

2008 nejir in school 5.jpg
2008 nejir school kids 2.jpg

そのネジール君が、絶対にしない遊びがありました。
それはサッカー。2008 nejir school physics2.jpg

サッカーは世界中で大人気、コソボも例外ではありません。しかしサッカーをすると、ネジール君の「小さくなった義眼」は、はずみで取れてしまうかもしれないのです。子供ながらに学友には教えていない「義眼」。   
特別扱いされたくない、という子供の気持ちがありました。

そんなネジール君の状態を専門的立場から見守ってきたのが、ガズメント医師です。2008 dr gazmend office 4-2.JPG
金沢大学病院でネジール君が退院する前から研修を受け、そしてコソボに帰ってからも治療を続けている医師です。
2008 dr gazmend office3 2.JPG2008 dr gazmend office mokuroku.jpg
日本で譲り受けた機械を見せてもらいました。それは8年以上経っても、まるで新品のように大事に使われていました。「この機械で救った患者は数知れません。もっと救わなければいけない。メンテナンスは徹底しています」と話してくれました。

~そして独立~

独立の瞬間とは、想像を超えたものでした。

コソボの議会で「平和な国をつくる」と独立宣言され、建物の外に走り出た私は、町が一変したのに驚きました。

かつて、犠牲者の写真しか目立たなかった通りに、埋め尽くさんばかりの人びとが居ました。・・・・歩くのもやっとの状態でした。
中継のために走った先の「グランドホテル」。
そこは、かつて紛争で様々な舞台となっていたホテル、そこが喜びに沸く人たちで埋まっていました。あふれる声、喜び、エネルギー
住民の大半が「信じられない」と抱き合っていました。それは独立が「本当なんだ」とまるで自分達に言い聞かせているかのような光景でした。

コソボの外にいる家族に喜びを伝える人たちの電話が飛び交い、我々の電話回線もダウン。
中継も15分以上遅れる混乱(カオス)。(←後日、番組デスクの「寿命が縮まった」とのこと・・)。
しかし、混乱の中で「本当に独立したんだ」、と「音の大きさ」で実感したのを覚えています。

~~
そのあと、ネジール一家を訪ねました。
2008 it was not just a piece of cake.jpg
運転をしてくれたのは地元の同僚。
道端で市民にふるまわれた「独立のケーキ」、それを家族のために大事に車のトランクに保管したまま、彼は「この喜びをぜひ世界に伝えて欲しい」と車を片道4時間走らせてくれました。・・・本当ならば「二度とない瞬間」を、大事な家族と過ごしたかったはずです。
20代30代の若者達は多くが「虐殺で親しい人たちを亡くした」犠牲者でもありました。若い彼らこそ、歴史を鮮やかに覚えているというのが、アルバニア系住民・セルビア系住民双方に多く居るのが「事実」です。

さて。
2008 prizren view.jpg

独立を迎えたあと、一家は「踊り狂った」ようです。
そして深夜、お父さんと友人らは切々と語ってくれました。

「バルカンを分かるか」と。

何度も取材で聞いた言葉です。
それは、幾重にも民族や宗教が交差してきた場所での「生きる感覚」でした。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

コソボは、セルビア正教にとっては宗教上大事な場所であり、またアルバニア系住民にとっては安住したくて住み着いた場所。そこに紛争が重なり、泥沼化。さらに当時のミロシェビッチ大統領によって行われたアルバニア系住民の虐殺に対して国際社会は非難。そしてNATO軍の空爆。
ユーゴ内でセルビア、モンテネグロ、クロアチアと独立していきましたが、コソボはセルビアの中にありながら国際統治下に置かれてきました。「セルビアの中での独立」は、行き場を無くしたアルバニア系住民にとっては悲願なものの、ロシアやセルビアにとっては許されないものでした。

実際、独立後、セルビアでは米大使館が放火される場面や催涙ガスに遭遇、警察に囲まれたり、声高く「コソボはセルビアだ」とする集会を多く見ました。

<写真は走り去る若者と遭遇した、ベオグラードの米大使館前>
2008 us embassy.jpg
<そして、ベオグラードでの集会。「コソボはセルビアのものだ」の垂れ幕>
2008 kosovo is serbia.jpg

セルビアでは多くのエネルギーを感じました。ナショナリズム高揚、そしてそれを上回る「やりきれない」という空気・・・・・・.
独立の数日後、かつての大統領・ミロセビッチ氏の墓は人を避けるかのように、ありました。

・・・・・・・・・・

独立については、「もう待てない」というのがコソボの立場でした。
独立前に単独取材に応じたセイディウ大統領は穏やかな表情のまま、「長い歴史から歩みだしたい。独立を妨げることは誰にも出来ない」と強い口調で話していました。
またUNMIK(国連)の面々も口を揃え「今、動き出さないと、さらなる紛争を招く」と話しました。さもなければ・・・と殺し合いの続いてきた歴史の重さを聞きました。

そうして欧米の支援をもとにようやく迎えたコソボ独立でした。
その夜、「独立式典の花火」が映し出されたTVの前で、亡くした家族、友人の写真を抱えている人たちがアルバニア・セルビア双方に、多く居ました。

・・・・・・・・・・

独立の重みに加えて、感じたこと。
それは遠い国での日本の存在でもありました。

コソボのネジール君一家は、「私達は日本の人に支えてもらいました。あそこまで親切な人々はあまり居ません。落ち込んでいるときは商店街に買い物をしに連れて行ってくれ、図書館で本を読んでくれました。そんな心遣いに、どう恩返ししたらいいものか。息子も救ってくれました」と話していました。そんな気持ちがうまく伝わっていければ救いです。

そういえば我々は毎回、首都から片道4時間かけて一家を訪れました。
何も言っていないのに家庭料理をつくって待ってくれていました。家庭料理は、異国で心に染みました。
2008 nejir family after independence2.JPG2008 cooking.jpg
2008 nejir dinner.jpg2008 nejir father.jpg

私も御礼日本食をつくりました。集めてきた材料は・・・・コメとしょうゆ、野菜にツナ缶。そこからチャーハン、ツナ入りオニギリという子供向けメニューと、卵焼きナスのお浸し、をつくりました。喜んで食べてくれました。
2008 nejir and onigiri.jpg

///////////////

再会した日、ある場所へと連れて行ってくれました。歩きながら、モスク(イスラム教)も教会(セルビア正教)も見える町で、いろいろなことを感じました。

「アルバニアのハンバーグを、ぜひ食べてもらいたい」と言われ、お父さんに店に連れて行かれました。イスラム教だというのもありますが、御礼をしたい人にはとことん御礼がしたい、というのがありました。「これは受け取ってください。それが我々の喜びでもあるんです」「こんな再会は普通、できないのだからそれを味わってください、また味わららせてください」、とのことでした。

最後の会計で、せめて分割しようとする私に、お父さんは「いいんです。本当に。私達が救われた命、それに比べたら、いくら支払っても足らないのですから」と繰り返しました。しかし「それは出来ない、どうしたらいいものか」と考えていると、ガズメント医師が私に「心は受け取ってください。でも別の形で返しましょう」と言いました。

そして。「今日、改めて感動しました。未来のために投資することを許してもらいたい」と話し、涙目で紙幣を差し出しました。「これは食事へのお礼では無く。ネジールの将来へのプレゼントです。」と。そして医師は「ネジール、何か欲しいものはあるのか?」という質問を投げかけました。

すると。ネジール君はしばらく黙り、「・・・出来れば、パソコンが欲しい。もし出来ればです。みんな持っているから」と口を開きました。父親の収入を気にして、絶対に今までは言うことのなかった言葉。その言葉が出たと同時に、ネジール君の目からは涙がこぼれ落ちました。「有難うございます・・」と泣いていました。手術でも滅多に泣かなかった少年が見せた涙。それは「義眼」からも流れていました。

///////////////////////

紛争は残酷で、解決できない問題が多くあります。
セルビア系住民の地域、そしてセルビアで取材していて、実に多くの事を感じました。
彼らの怒り、絶望。

実際、ネジール君と同じ年の子供をセルビア側でも取材しました。
「近寄るんじゃない」とのオーラをふりまいていた彼等に会ったのは、女性が叫ぶ集会でした。
彼らの大人びた顔つきは、忘れられません。
2008 lady in mitrovica.jpg

目の前で知り合いが殺された場面を語った若者が「大事なことは過去ではなく、未来です」と話していました。

ネジール君の義眼から流れた涙も、希望であってほしい、と願います

冒頭の質問。
私は、、こう答えました。

「独立した国に生まれ育った私が、分かるというのはオコガマシイと思う。きっと、独立の重みは分かろうと思っても貴方達ほど分かることはできない。でも一生懸命、感じたことは伝えたいとおもう」と。・・・・・水で乾杯しながら「いったい今の日本に何が伝えられるのだろうか」、伝えられなかった幾つかの事への悔しさと共に、大きな課題を感じました。

今も課題がコソボでは「山積み」です。
独立の重み。「人」を通して見えたもの、それは日本にとって計り知れない、遠い話・・・なのかもしれません。しかし、遠いからこそ伝えたい。。。。。と思ってきました。

コソボ独立の際にコソボとセルビア、双方で見たものは、現実の中に生きようとする希望の力だと今も強く感じています。


オペラ座で歌舞伎

(2007/03/30)


 

3月23日から30日までパリのオペラ座で歌舞伎が公演されました。
通称“ガルニエ”と呼ばれるオペラ座は、1875年に完成した歴史ある建物です。
日本人にも人気の観光名所で数多くの彫刻やシャンデリア、シャガールの天井画など
その豪華さで知られています。
「オペラ座の怪人」の舞台にもなった劇場で、バルコニーの5番が指定席だそうです。
そんなオペラ座で、バレエやオペラ以外が上演されることは珍しく、
中でも、歌舞伎は初めて!!の快挙なのです。

DSC02425.JPGDSC03659.JPG

演目は、市川家の家の芸である「勧進帳」と「紅葉狩」です。
「勧進帳」では、団十郎さんと海老蔵さんの親子が日替わりで弁慶を演じるダブルキャストが実現。
これは海老蔵さんの希望だそうです。
記者会見で海老蔵さんは「夢のよう、とても勉強になる」と話していました。
私は、取材とプライベートで両者の弁慶を見ました。
「同じ役でも演じる人でこんなに違うんだ~」ということを実感!
どちらがよかったかは・・・ナイショです。

フランス語での口上も行われました。
フランス語というと流れるような響きですが、それが歌舞伎調!?なので、独特の雰囲気です。
でも、よく通じていたようでフランス人からは笑いが起きていました。
中でも亀治郎さんは、小学校から高校までフランス語の授業があったそうで、
とても流暢なフランス語でした。

公演にあわせて、パリ市内で歌舞伎の衣装展も開かれました。
歌舞伎の華やかな着物はフランス人に人気が高く、大勢の人が訪れていました。

DSC03607.JPGDSC03609.JPG

着物といえば…、
公演会場のオペラ座にも多くの着物姿の日本人がありました。
中には日本からの「パリ歌舞伎鑑賞○○ツアー」なんてのもあり、
“おっかけ”パワーには驚かされました。
という私も、初鑑賞にしてすっかり歌舞伎に魅了され…、
帰国後は“おっかけ”に仲間入りしているかもしれません。


壁の崩壊で得したのは?

(2007/02/01)


 

 1月16日から3日間、ドイツ・ベルリンで電撃的に米朝会談が開かれました。
結局2月に再開されることになった6か国協議について、
アメリカのヒル国務次官補と北朝鮮の金外務次官が下交渉を行ったのです。

17012007097.jpg
←メディアが詰め掛けた北朝鮮大使館
 当初は「なぜベルリンでアメリカと北朝鮮が…?」という感が
                           拭えませんでした。
「米朝の外交官が会うのなら普通は北京あたりだろう」と…。
しかし金次官の動静をマークしているうちに、
その理由が分かってきました。

当たり前のことながらベルリンにはアメリカ・北朝鮮とも
立派な大使館を持っているからなのです。
それは東西に分断されていた冷戦時代の名残りでもあります。
かつての西ベルリンとアメリカの結びつき、
東ベルリンと北朝鮮との関係を思い返すと、
統一後のこの街に両国の巨大な大使館が
共存していること自体が何やら奇跡的な気がしてきます。
日本をはじめとして北朝鮮と国交のない国は珍しくありません。

21012007105.jpg
←世界中の観光客で賑わうブランデンブルク門
 もちろん東西どちらからでも近づける

 と同時にこんな風にも思いました。
北朝鮮の大使館前で張り込み取材をしていると、
ドイツ製高級車に乗って買い物にでかける
大使館員をよく見かけました。

彼らはもちろん本国でも相当な特権階級に属するのでしょうが、
統一後のドイツという「西側世界」の恩恵を
十分に享受しているように見受けられたのです。
もしかするとベルリンの壁が崩壊して一番喜んでいるのは彼らではないか…と。
統一されたドイツと、今も南北に分断されたままの朝鮮半島。
このいびつな世界の縮図がベルリンの街にありました。


Bonne annee!

(2007/01/06)


 

新年明けましてあめでとうございます!

パリに赴任して三度目の年末年始となりましたが、
前回までは、出張で海外だったため、パリで迎える初めてのお正月です。
そこで、思いっきり“パリらしい!?”ことをしてみることにしました。

12月31日、まずは、近所のマルシェ(市場)に買い物に行きました。
年末年始の食材を買う人で大混雑。
「アメ横」とまではいかないものの大勢の人で賑わっていました。
おしゃれなチーズの盛り合わせなどもありましたが、一番人気は魚屋さん
スモークサーモンや大きなエビが飛ぶように売れていました。
新鮮な魚介類を見ていると、ちょっと日本のお正月が恋しくなりました。

DSC03154.JPGDSC03152.JPG


そして夜は、パリの中心地、マドレーヌ寺院で開かれた大晦日コンサートに行きました。
2006年を締めくくるに相応しくモーツワルトの曲がオーケストラによって演奏された後は、
聖歌隊の合唱。
教会ならではの自然の音響で、とても荘厳な雰囲気に包まれました。

DSC03170.JPG
2007年へのカウントダウンの瞬間は、やはり、シャンゼリゼ!!
午後11時に着いた時には、もう身動きできないほどの人ごみで、
大通りが歩行者天国に!
みんなシャンパンとグラスを持参し、年明けを待つばかり。
その脇には、警察、消防、救急車までが待機していたのが、
今のパリの事情を反映していて、ちょっと残念でしたが…。
そして午前0時、シャンゼリゼのイルミネーションが一斉に消え、
緊張が高まります。
DSC03179.JPG
さぁ、花火だ!と誰もが期待していたのですが…、
大掛かりな打ち上げ花火は上がらず、小さな花火と怒りの爆竹のみ。
新年早々、肩透かしを食わされたような気分でしたが、
「これもフランスらしいか…」と妙に納得してしまいました。

そもそも、花火が上がるとお知らせがあったわけでもなく、
大勢の人々(私も含めて)が、花火があると思い込んで、
集ってきていた訳ですから…。
とはいえ自宅のTVで、ロンドンやNYの華やかな花火を見た時は、ちょっと寂しかったです。


ヨーロッパとアジアの境界にて

(2006/12/09)


 

ローマ法王ベネディクト16世が初めてイスラム教圏を訪問するというので、
トルコのイスタンブールに行ってきました。
30112006048.jpg
ベネディクト16世は9月にイスラム教と暴力を結びつける
神学講義を行ったとして、
イスラム世界から大きな反発を受けています。
その問題がまだ尾を引く中での今回のトルコ訪問。
トルコは国民の99%がイスラム教徒で、
かつて先代のヨハネパウロ2世を
銃で狙撃したのもトルコ人だったため、
今回も法王に何かの危害が加えられる可能性は
十分考えられたわけですが、
治安当局はそれを決して許しませんでした。
30112006052.jpgブッシュ大統領の訪問時以上という
空前の警備体制が敷かれ、
法王が行く先々には交通規制やバリケード、
軍のヘリコプターが上空を飛び交い、
市民生活はマヒ状態です。
ここまでの厳戒態勢をとったのには
理由があります。

それは「EU加盟」。

いま法王の身に「何か」あれば、それは加盟が
絶望的になったことを意味するからです。

「ヨーロッパ側」のイスタンブールからボスポラス海峡を渡ると、そこはもう「アジア」。
そもそもトルコが「ヨーロッパ連合」に入ることがふさわしいのかどうか?
「ヨーロッパ人」の中に疑問の感情が存在することは否定できません。
トルコはその違和感を何とか解消して加盟を実現しようとしているのです。
EUからは政治・経済・人権など数々の分野で厳しい条件が突きつけられています。
それをこれから10年ほどかけて一つ一つクリアして行こうという最中に、
「ヨーロッパ」の精神的支柱の一つである法王に危害を加えることなど、
もってのほかというわけです。

08122006060.jpg
事実イスタンブール市民はこうした背景を十分わきまえているとみえて、
インタビューすると「我々も法王を歓迎するので、
法王も我々(イスラム教)のことを理解して尊重してほしい。」といった
優等生的な答えが大半を占めます。
反対デモに参加して気勢を挙げていたのは、
あまり国際事情を理解していない
田舎の人たちがほとんどだったとも聞きました。
一方のベネディクト16世も随所で
イスラム世界に対する気遣いを見せながら、
このあたりの事情を踏まえて
「バチカンはトルコのEU加盟を支持する。」と発言。
結局ほとんど宗教とは関係ないこの発言が
最大のリップサービスとなりました。

というわけで「何か」が起きることもなく、
いや起きるはずもなく4日間の日程は終了。
法王は無事バチカンに戻ったのでした。


セキュリティー

(2006/12/08)


 

NNNパリ支局はモンパルナス・タワーという
高層ビル内にあることを前回お伝えしました。
ビルの屋上にはパリ市内が一望できる展望台があり
世界中から多くの観光客が集まります。

支局.jpg

そのためビルの入り口には警備担当者が立ち
カバンを持っている人は
中を見せなければなりません。
アメリカやロンドンで起ったテロ事件以降
フランス国内でも、年々セキュリティー・レベルが上がりつつあります。

と言ってもそこはフランス。
朝は厳しいチェックであったが、
夕方近くになると気だるい空気に包まれます。
担当者も帰宅ムードになるのか?
警備が緩やかになることもあります。

そのような和やか雰囲気を打ち破る騒ぎが11月上旬におこりました。
モンパルナス・タワーに爆破予告!!
タワー内で働く人々に対して警察から退避命令が下されました。
我々も慌ててビルの外に飛び出しました。
NNNパリ支局として即座に取材したところ
爆弾予告時間がPM4:30、
我々に退避命令が出たのはPM5:30。
遅―――――い!!
予告が本当ならば死んでいたかもしれません。

ビデオ.jpg

フランスらしいと思いつつ、退避命令の解除を待っていました。
日本の常識で考えると、ビルの前は避難してきた人々で溢れかえります。
しかし、フランスでは帰宅時間ということなのか、
ビルから追い出された人々がドンドンと帰路に着きます。
命令解除時にビルへ戻る人々の姿はまばらでした。

これまたフランスらしいと思いつつ
支局へ戻るためにビル内へ入ると
セキュリティー・チェックが突然通常よりも厳しくなっていました。
爆弾騒ぎの後にやっても遅いのでは?????
最後までフランスらしさを感じさせたできごとでした。


パリ紹介

(2006/12/05)


 

タワー.jpg 室内.jpg

パリ市にある高層ビル・モンパルナスタワー。
市内のどこからでも見ることができるため、景観を破壊しているとも????
NNNパリ支局はこのビル内に支局を構えています。
記者2人、カメラマン1人、現地リサーチャー3人の
6人体制で支局は運営されています。

スタジオ.jpg 
こちらがパリ支局の心臓部とも言える支局スタジオセットで
中継映像や取材したテープ映像を日本へ送り届けています。
ヨーロッパ各国では、HDシステムが
まだまだ普及していないため
取材現場の現状にあわせて
HDシステムをまだ導入していません。
しかし、ヨーロッパの取材現場で私が
日本人カメラマンであると分かると必ず尋ねられる質問があります。
「使用しているのはHDカメラ?」
報道現場前線に立つ各国のカメラマンたちも
HDシステムについて非常に興味を抱いているようです。

さて、パリ支局があるモンパルナス・タワーは
パリのランドマーク的なビルのため
911同時多発テロ以降
機関銃を持つフランス軍兵士が毎日警備に当たっています。
日本から観光で訪れた人は
華やかなパリの雰囲気と機関銃のギャップに少し驚くかもしれません。

旧陸軍.jpg
実はフランスでも2001年まで徴兵制が存在していました。
パリ観光の目玉・エッフェル塔の近くには
旧陸軍士官学校があり
現在もフランス軍関係の施設として使用されています。
建物周辺では制服を着た現役の軍人を見かけます。
また、毎月第一水曜日の正午に
パリ市内に響き渡るサイレンの音。
街を闊歩するパリジャンやパリジェンヌたちは
立ち止まりもしませんが
これは空襲警報の訓練の音です。
冷戦の危機が去った後も
訓練としてサイレンだけは鳴り響いています。

日本人が持つフランス・パリのイメージは観光、グルメ、ファッションですが
核保有国の軍事大国と少し意識するだけで
フランスの異なる表情も感じ取る事ができるはずです。


C'est elle !

(2006/11/20)


 

“C’est elle !”(それは彼女だ!)
先日フランス社会党の大統領候補に選ばれた
セゴレーヌ・ロワイヤル元環境相のキャッチフレーズです。

社会党の予備選挙(党員投票)で60%以上の圧倒的支持を得て
公認候補の座を射止めたロワイヤルさん。
いまテレビやラジオで彼女の名前を聞かない日はありません。

人気の理由は、内縁の夫である社会党第一書記(党首)オランド氏との間に4人の子供をもうけ、
育て上げながら、環境大臣や家庭担当大臣など政治家としてのキャリアも全うしてきたという、
新しい時代の女性像を体現していること。
さらに53歳になった今でも衰えない美貌が一役買っていることも否定できません。
(ある雑誌にはバカンスの時の盗撮水着写真が掲載されるほどですから…

20112006036.jpg16112006034.jpg

彼女が行くところ必ずマスコミが大挙押しかけ、
毎度のように押し合いへしあいの騒ぎが起きます。
これをこちらでは「ロワイヤル現象」と呼んでいます。

現在の世論調査などでは、与党側の有力候補であるサルコジ内相
(1年前、暴動に参加する移民の少年を「クズ」と呼んだ人)と決選投票になれば
全く互角の戦いになると予想されていて、日本ならこのまま地すべり的に
「初の女性大統領誕生!」へ一気に加速してゆきそうですが、
フランスという国はそうではありません。

社会党の支持者に取材しているとこんな声に出くわしました。
「私はロワイヤルが出馬するというから反対票を投じるために社会党員になりました。
女性だから新しいことが出来るとは限りません。そんなことは勝つ理由にはなりません。」
しかもこんな意見が若い女性から出てくるから不思議です。
予備選の結果を受けて街角で誰に投票するかをインタビューしても
「ロワイヤルに投票するかどうかは、彼女の公約を見てから判断します。」とか
「彼女にはエリゼ宮(大統領府)よりも家庭の方がふさわしい。」

大きな流れが出来そうになると、必ず一旦立ち止まって
「このままでいいのか?」と考える人たちが出てくるのです。

「マドンナブーム」「小泉劇場」など怒涛に流され、
政策抜きで大衆が動いてきた感が強い日本から見ると、見習うべき点ではあるかも知れません。
大統領選挙の本番は来年4月と5月。
ロワイヤルさんが現在の人気を保ったまま勝利できるのかどうか?
取材する記者としてもドキドキしてしまいます。


ボンザイ バンザイ!

(2006/11/15)


 

DSC02869.JPG
先日、“ヨーロッパで盆栽人気”という取材をしました。
最初は「本当に人気なのかなぁ?」と思っていたのですが、
本当に大人気!だったのです。

パリ市内には、なんと盆栽専門店が何軒かあるほか、
大型ショッピングセンターなどでも、手軽に買える盆栽を売っています。

さらに、愛好家のための盆栽教室があるとのことで、入ってみると…。
夕方6時、仕事を終えたフランス人が盆栽片手に続々と集ってきます。
そして教室が始まるや否や
「これから寒くなるけど屋外に置き続けていいか?」
「剪定のタイミングはいつ?」など、
専門的な質問が続々と飛び交います。
何よりビックリしたのは、参加者の真剣な表情です。
こんな真面目なフランス人、仕事中には見たことない!!というのは、
ちょっと大げさですが、とにかく真剣そのものなのです。

DSC02873.JPGDSC02874.JPG

そして、愛好会の自宅を訪ねてみると、
おしゃれなテラスに盆栽がズラリと並んでいます。
ヨーロッパの建物に不思議と盆栽がマッチしています。

日本では、何気なく見ている盆栽ですが、
フランスで見ると、盆栽は確かにステキ!です。
海外で暮らしていると、日本を離れて初めて、
日本のよさに気付かされることが多々ありますが、
盆栽も、その一つとなりました。

“盆栽”はフランス語では“ボンザイ”
いまや、ほとんどのフランス人が知っている単語です。


"ハポン”発見

(2006/10/18)


 

DSC02702.JPG遅めの夏休みをいただき、スペインのアンダルシアへ行ってきました。
日に日に寒くなるパリを抜け出して、陽のあたるあたたか~い所へ行きたかったのです。
セビリアの大聖堂、グラナダのアルハンブラ宮殿など
世界遺産に触れることが目的だったのですが、
それ以上に楽しみにしていたのが、スペインの海の幸と、のんびりすること。

そんなわけで、休みの半分は、
地中海沿いのリゾート地(コスタ・デル・ソル)で過ごしました。
街には、小皿料理のタパスを楽しませてくれるバルや土産屋が立ち並び、
とってもいい感じ。
「これぞスペインのリゾートだぁ」と感動していたら、
思いがけないニホン(=ハポン)に出会いました。

ハポン①
 DSC02778.JPG レストラン街を歩いていると、ふと目にとまった赤提灯。
なんと、日本食レストランがあったのです。
パリは、今、空前の日本食ブームで、こうした風景は見慣れていますが、
スペインのリゾート地でも見かけるとは、さすがにビックリ!
しかもよく見ると、きっとどこかからもらってきたのでしょう、
大小宴会承ります”と書いてあるではないですか!?
「そんなことできる訳ないでしょう」と一人で突っ込み、
その店を素通りしました。

ハポン②
 海岸沿いの広場に、小さなゲームコーナーがありました。
パターゴルフやミニ列車もあって、
小さい頃、デパートの屋上にあった遊園地のような、
なんだか懐かしい雰囲気です。
そこで「ワニワニパニック」という日本のゲームを見つけました。
奥から出てくるワニの頭をハンマーで叩くもので
もぐらたたきのワニ版、といったところでしょうか。
これは、素通りするわけには行きません!
早速、1ユーロを入れて挑戦です。
ハンマーが当たる度に、
丁寧にも、ワニが日本語で「イテッ、イテッ」と叫んでくれます。
快感!!思わず真剣になってしまいました。
 休みでリラックスした中、ワニの頭を叩いてストレス発散まで出来ました。
翌日、腕が筋肉痛になっちゃいましたが・・・。

DSC02812.JPGDSC02808.JPG


交通事情

(2006/10/07)


 

朝夕の通勤ラッシュ時に、渋滞が渋滞を呼ぶこともしばしばあります。
今回はフランス・パリの交通事情をご紹介します。

右優先
パリ市内を運転する際に、まず気をつけなければならないのは右優先!
右側を走る車が圧倒的に強い通行優先権を持っています。
ブレーキを踏まずに路地から飛び出して来る車もあるので、
太い道路を走っているとしても車の右側には要注意です。


DSCN07190003.jpg 
 車線
 片側三車線ぐらいの大きな通りがパリ市内にはいくつもあります。
 “ぐらい”というのは、車線が引かれていない道路が沢山あるからです。
 三車線、時には二車線とその道路を走るドライバー達によって変化していきます。
 規則で決められるのが嫌いな国民性ということなのか???

 工事現場などで突然一車線になると
 右から左から一車線に目がけて車が集まってきます。
 ルールは隣の車よりも車体を少しでも入れた者が勝ち!
 各ドライバーとも譲り合いの精神よりも、まずは我先に車体を入れてくるので
負けずに車をジリジリと前進させないと、いつまでたっても前へ進めない結果となります。

DSCN07250002.jpg
 交差点
 信号は停止線とほぼ同じ位置にあります。
 日本のように交差点を越えた所にはなく
 停止線に止まらなければ信号を見ることができないように
 合理的に設置されています。

 ところで日本では渋滞時に、
 交差点内で信号が変わり、立ち往生しないように
 青信号でも交差点内に進入せずに
 停止線で車を止めて待つこともあるかと思います。

 フランス、特にパリでは交差点で立ち往生することなどお構いなし!!
 例えば南北を走しる道路の信号が青である限り、車は交差点に進入し続けます。
 信号が変われば、交差点内で身動きが取れなくり、東西を走る車の流れを妨げます。
 東西を走る車は南北の車列の間を縫って前進。
 その間に、再び信号が青から赤に。
 今度は東西を走る車が立ち往生し、南北を走る車の流れを妨げます。
 ここに路線バスなどが絡むと交差点は大混乱!
 このような光景は朝夕の通勤ラッシュ時にパリ市内の各所で見ることができます。

DSCN07270001.jpg

 クラクションを鳴らして文句を言う人。渋滞の原因になっていても平然としている人。
 まずは自分が交差点を進むことが最優先。これもフランス流個人主義???
 ただ、日本の感覚で見るとメチャクチャのグチャグチャです。
 フランス国外から戻って来た時に、混乱した道路を走っているとパリへ戻ったことを実感します。

横断歩道
 ドイツへ取材に行った時に驚いたのは、車の流れが途絶えている道路でも、
 横断報道の信号が赤から青に変わるのを待ち続けるドイツ人!
 赤信号で横断報道を渡らないのは当然のことかもしれませんが
 フランスから訪れた私としては驚きでした。
 「規則は守るもの」というのがドイツ人気質なのでしょうか。

 ちなみにフランスでは赤信号だろうが、車の流れが多い太い道路であろうが、
 通行人は道路をドンドン渡ります。
 いま道路を渡るのか?それとも車が通り過ぎた後に渡るのか?
 見ていると不安になることもあります。ドライバーと通行人による阿吽の呼吸もありそうです。

交通マナーはその国の鏡?
 交通マナーの違いは国民性の表れなのか?
 これは日々の取材現場でも確認する事ができます。
 取材先と事前打ち合わせを細かくやっておけば、打ち合わせ通りに取材が進むのがドイツ。
 その代わり、現場で突然交渉してもダメなものはダメと融通が利かないのもドイツ。
 フランスでは打ち合わせをしていても、「場合による」、「人による」と非常に曖昧です。
 どのような形で取材が成立するのかが、現場に行ってみるまで分からないケースも多々あります。
 ただ、打ち合わせ時に駄目であったものが、取材現場で突然OKになるなど、
 不確実性は非常に高いが融通の利く面もあります。

 相反する国民性のようですが、フランスとドイツにも大きな共通点があります。
 それは、老人や子供に優しい運転。
 信号が無い横断報道で、老人、子供、そして小さな子供を連れている親が立っている場合
 車を止めて横断報道を先に渡らせるのも両国の大きな特徴です。


コトバの力

(2006/10/06)


 

 パリでは「パリモーターショー」が開かれています(10月15日まで)。
各メーカーが自慢の車を展示しているのですが、例年、新車に注がれるべき熱い視線が、
今年はあのカルロス・ゴーン氏に向いてしまった感があります。
というのもゴーン氏率いる日産・ルノー連合とゼネラルモータース(GM)の提携話が
大詰めを迎えていたからです。結局日本時間の5日で破談になりましたが…。

28092006014.jpg
 わがNNNでは遥かNY支局から小林特派員の力強い援軍を得て、
ゴーン氏の単独インタビューにも成功。自動車業界再編に向けてのビジョンなどを
取材することができたのですが、そこで感じとったのは彼の「コトバの力」でした。
文字通り分刻みのスケジュールをこなしながら、時と場所・相手は次々と替われど、
彼は疲れなど微塵もみせることなく“語り”続けていました。
車を説明する担当者を質問攻めにしたと思えば、
他社のいい車を見つけると部下のデザイナーを呼んで「これいいよなぁ」と話しかける。
マスコミに取り囲まれると現状と今後の方向性を簡潔に説明し、
社内インターネット向けに社員が安心して働けるようビデオメッセージを収録する。
時には英語、時にはフランス語で…。それも相手次第。

P9290008.JPG
 「提携交渉相手」のGMブースを通りかかった時のこと、ちょうどそこでラジオ番組の
生放送中だったGMの地元デトロイトのキャスターに呼び止められました。
いかにもアメリカ人らしく「ハーイ!カルロース!」と…。
するとゴーン氏は相手が差し出したヘッドセットを嫌な顔ひとつせずに受け取り、
飛び入り出演してしまったのです。
]もちろんそこでも彼の考え方をしっかり説明していましたが…。

 良し悪しは別にして日本にはまだ「大組織の長たるもの多くを語らず」みたいな
考え方が残っているのではないでしょうか?
「社長が一々細かい説明などしなくても部下がしっかりしていれば大丈夫」的な空気が
まだあるような気がします。
日本有数の大企業の風土を変え、甦った組織をさらに前向きに引っ張る…
そんなゴーン氏の最大の武器「コトバの力」を目の当たりにして、
私の古臭い考えも少し変わったように思います。

 で、「じゃあ君のコトバの力はいかほど?」って聞かれると、
「まだまだ奥ゆかしい日本人のままです。」と答えざるを得ないのが残念です。


ディープな馬の世界

(2006/10/02)


 

世界最高峰のレースに挑んだ日本最強の馬・ディープインパクト、
結果は惜しくも3位でした。
当日は、とにかく観戦に駆けつけた日本人が多かったのには驚きました。

この取材に向け、何度か競馬に行ってきました。
とは言え、競馬には疎いので、
まず競馬について知識を増やさなければ!と思ったのです。

実はフランスは、約250の競馬場があり、
毎日どこかで競馬が行われている“競馬大好き”国なのです。
でも、競馬好きと行っても、日本とは、ちょっと違います。
“赤鉛筆を耳にかけたおじさん”のイメージの日本の競馬と違って、
フランスの競馬場は、“家庭的”な雰囲気が漂っていました。
馬を見てスケッチしている人がいたり、
老夫婦がのんびりと平日の午後を過ごしていたり。
もちろん真剣に、賭け事として競馬に向かっている人はいるのですが、
フランスの競馬場には、
それだけじゃない世界が広がっていました。

DSC02510.JPGDSC02518.JPG

ディープインパクトが調教されていたパリ郊外のシャンティ競馬場では、
先日、馬車のコンテストが行われました。
スピードや正しいコースを走るといったポイントに加え、
審査の対象となるのが、エレガントさ!!
DSC02553.JPG
参加者は、童話の世界から抜け出したような衣装を着ていました。
いい大人がすました顔して馬車に乗っているわけですから、
何だか笑いたくなってしまうような光景ですが、
ヨーロッパでは馬術といえば、もともと貴族の遊び!
今なお、その伝統と格式を守り続けている人たちがいるのです。

レースは残念な結果でしたが、
ディープインパクトのお陰で、
ヨーロッパの新たな世界を知ることができました。
まぁ、「貴族」は私には縁のない世界ですが・・・。


ご存知でした???

(2006/09/25)


 

はじめまして、NNNパリ支局へ特派員カメラとして駐在している常喜満です。
海外特派員といえば記者業務を想像される方が多いと思います。
そこで、今回はNNNパリ支局の特派員カメラマンの仕事を簡単にご紹介します。
取材エリアは主にヨーロッパ大陸。
大きな事件事故が発生すると中東、アフリカまで取材することになります。

特派員カメラマンも報道カメラマンなので
ニュースの映像部門を担うのが主な仕事です。
カンヌやべネチア映画祭のような華やか現場から
突発の事件事故取材などに対応すべく日本から派遣されています。


Vicky&Jacky20001.jpg


と、ブログを書いてる時にタイで軍によるクーデター発生!!
ニューヨークで国連総会に出席していたタイの首相(当時)が
ロンドンへ向かっていることを受け
急遽、ロンドン支局の応援取材!!
タクシン首相がいる現場取材や、徹夜でロンドン支局内のニュース番をこなしパリへ戻る。

ロンドンから戻るユーロスターの列車内でブログを書き書き。
さーブログをアップロードするぞー!!
と、パリ支局へ戻るやいなや
ドイツ・ラーテンにあるリニアモーターカーの試験場で
20以上の死者を出す事故が発生中!

荷解きをする間もなく
パリからドイツ・ハンブルク行きの飛行機に飛び乗る。
ハンブルクからの道中は森、また森。
野鹿や野ギツネに出会いながら山深い現場へ到着!
深夜3時過ぎに取材は終了したが
森に囲まれた現場周辺に開いているホテルも無し。
止むを得ず車中で1時間仮眠を取り
翌日は夕方まで取材。
現場に大きな動きが無いことを確認後
真夜中過ぎにパリへ戻る。

何やら行動確認のようになりましたが
特派員カメラマンの業務を垣間見ることができたでしょうか?
テレビ映像による表現手段を用いて
海外の報道現場最前線から日本へ
特派員記者と共にニュースを送り出しています。



見栄っパリ

(2006/09/20)


 

 パリ支局の徂徠です。
 実は私、赴任したのが9月1日、パリ駐在歴がまだ1ヶ月に満たない新米ホヤホヤなんです。
 これまで何度か仕事で来たことはあったのですが、あくまで観光客レベル。
もちろん住むのは初めてです。
 今回はその短い生活体験から「あ~っ、パリジャンって見栄っ張りだなぁ」と思ったことを
2つご紹介しましょう。


見栄っパリその① 「信号機」


パリ市内で車を運転し始めて一番最初に感じたのが「どこに信号があるの?」ということです。
電柱と電線が縦横無尽に張り巡らされていることが、
日本の街が汚く見える要因の一つと言われます。
パリに限らずヨーロッパの街はその逆。よく見るとゴミや犬の糞が落ちていたりして
結構汚れているのに、電柱・電線が無いおかげで遠目には美しい街並みに見えるのです。

20092006010.jpg 
信号機に関しても同じことが言えます。
日本の信号は遠くからも見やすいように車道の真上、
しかも交差点の手前と向こう側の2箇所に設置されているケースがほとんど。
特に大通りだと巨大な信号機が頭上に居座っています。
←(パリ市内の一般的な交差点に進入・・・信号はどこ?)
 しかしパリの信号はずっと「控え目」で、
車道というより歩道上に小型かつ縦型のものが設置されています。
交差点に差し掛かかると、まず信号機の存在を発見するのに一苦労。
さらに複数ある中から、どの信号に従うのが正解なのかを判断するのが、また一苦労です。
最近でこそようやく慣れてきましたが・・・
20092006009.jpg
しかもお目当ての信号は大抵が停止線の真横にあるので
一番必要なはずの運転席から特に見にくい位置にあるのです。
街路樹や路上駐車のトラックや、どこでも割り込んでくるバイクに隠れて見えないことがしばしば。
後ろからクラクションを鳴らされて「あっ!青になってたんだ」とあわてて発進することも日常茶飯事です。
(運転席から首を捻じ曲げてようやく見える信号)→
 もしこの信号が原因で事故が起こったりしたら、
恐らく日本やアメリカなら「視認困難な位置に信号機を設置した」とし
行政の責任が問われることになるんでしょうが
こちらは良くも悪くも「個人の自主性」を重んじるお国柄
そんなことを気にしている人は皆無のように見受けられます。

多少信号が見にくかろうが都市景観を守ることの方が大事ということなんでしょうか?


見栄っパリその② 「男子トイレ(小用)」

 次は下世話な話で恐縮ですが、男子トイレにある「小用」便器について。
これが小憎らしいくらいに挑戦的なんです。
20092006012.jpg 私の身長は173cmで脚の長さも特に長くも短くもない日本人としては
極めて標準的な体型だと自負していますが、
大抵のトイレはその高さが「ギリギリ」のところにあります。
何かパリ市の設置基準でもあるのでしょうか?
 支局があるモンパルナスタワーのトイレでもご覧の通り。
身長160cm以下の人なら「断念」せざるを得ないでしょう。
ましてや子供なら絶対に無理・・・。
 かといってフランス人が日本人より背が高いかというと、
実際はさほどでもありません。
たまに北方系でびっくりするほど高い人もいますが、
大抵のパリジャンは私と似たり寄ったりの体型。
フランス人の支局員2人も170cmそこそこ、
「この便器の位置、高いと思わない?」と聞いてみると、
「平均的な高さだと思います。」との答え。
 やっぱり「見栄っパリ」だなあと思いました。


「印象派の島」に行ってきました

(2006/09/18)


 

パリから車で15分、郊外のシャトゥという町に行ってきました。
この町には「印象派の島」と呼ばれるセーヌ川の中州があります。
モネやルノワールなど印象派の画家が通って作品を描いたことから名付けられたそうです。

どうして、ここにやってきたかというと…、毎年9月の第三日曜日「文化遺産の日」は、人々が絵画のモデルのような格好をして登場する催しがあるからなんです。
これぞ、究極のコスプレ!?といったところでしょうか。
若い人は勿論のこと、ちょっと年配の人たちも楽しそうに、それも似合っているからスゴイです。

DSC02492.JPG DSC02483.JPG

 DSC02476.JPGランチは、ルノワールの「舟遊びをする人たちの昼食」の舞台となったレストラン「メゾン・フルネーズ」で楽しみました。有名レストランなので、値段が高いかな?と心配でしたが、パリに比べればリーズナブルで料理も美味しく、お店の人もとても気さくでした。ラッキーなことに、絵のモデルとなったまさしくその場所でランチをいただくことができました。おかげで観光客の注目の的でしたが…。

パリを一歩出ただけなのに、町はとても静かで空気もきれい!そこに絵画の世界から抜け出したような人々がいる!!なんだかとっても優雅な気分を味わってきました。
来年は、私もコスプレして出かけようかなぁ~。