「独立の重み、わかりますか?」
コソボの同僚に、そう聞かれました。
それは、騒がしい音楽と人々の叫びがあふれる中でのことでした。ことし2月。
「旧ユーゴスラビアの最後のパズル」とも言われるコソボ独立が宣言された夜でした。プリシュティナの街は喜びの渦の中にあり、堂々と「NEWBORN」という看板が飾られるなど、かつてと様子は一変していました。

コソボ取材を切望してきた「きっかけ」ともいえる一家に出会ったのは、8年半ほど前でした。当時入社2年目の私は、1人でカメラを手に石川県・金沢の病院に少年と家族に会いに行きました。 コソボ紛争でガンの目を治療できなかったアルバニア系の少年が、現地を訪れた日本人の上田医師(AMDA)に救われて来日していました。
少年の名前はネジール君。そしてお父さんとお母さんの3人家族は、当時、治療を受けながら優しい金沢の人々に支えられていました。時に見せる表情には不安、そして遠い祖国を思う気持ちが伝わってきました。ネジール君はほとんど泣かず、まるで「ナゼ自分が日本に居るのか」理解をしていたかのようでした。傍らには心配そうな「お母さん」の姿がありました。お母さんは毎晩、息子の隣で小さくなって眠り、朝になると窓からこもれる朝日を見て、祈りをささげていました。「息子の目が治りますように」と・・・。異国で祈るその姿は、万国共通の母の強さ。、胸が熱くなったのを覚えています。
以来、「いつか来る」と見守ってきたタイミングで、家族と再会できたのは、「独立の日付」が見えたときでした。欧州、アメリカ、国連でと、舞台を何度も移しながら、何度も話し合われてきた「独立のための環境づくり」。「いよいよ」との情報をもとに、私はロンドンからパリへの引っ越しを終えた足で、現地へと飛びました。
ようやくコソボに着いた日、車で数時間かけて着いた民家で迎えてくれた彼らの第一声は日本語で、「こんにちは」でした。
「本当に良く来てくれました」と涙ながらに話すお母さん、そしてお父さん。
そして機材を全部持って家の中に我々を招き入れようとするネジール君。
一家は、変わっていませんでした。


彼らは、8年前のものを見せてくれました。紙きれ、パンフレット、電車の切符。病院を巡回していた「ヤクルトのおばさん」にもらったという袋、折り鶴、絵本。ぬいぐるみ、名刺、地図。・・・・・全てが大切に保管されていました。家族にとっては「宝物」。一家の様子を見ていて、「日本の人に受けた優しさ」の重さを感じました。・・・・・恥ずかしながら、海外赴任3年目で、とても大事なものを思い出した気がしました。
しかし。
「独立までにかかった時間」の分、日本で治療した義眼は小さくなっていました。義眼は成長期の少年には小さくなっていたのです。ネジール君の学校を訪問しました。ネジール君は大変な人気者でした。どこを歩いていても必ず友人が寄ってきます。友人らは「誰かが困っていたら必ず助けてくれる」、と話していました。
(お母さんは、「日本の人たちのおかげです。日本の人たちに助けてもらったから、感謝の気持ちが植えつけられているのです」と話しました。)


そのネジール君が、絶対にしない遊びがありました。
それはサッカー。
サッカーは世界中で大人気、コソボも例外ではありません。しかしサッカーをすると、ネジール君の「小さくなった義眼」は、はずみで取れてしまうかもしれないのです。子供ながらに学友には教えていない「義眼」。
特別扱いされたくない、という子供の気持ちがありました。
そんなネジール君の状態を専門的立場から見守ってきたのが、ガズメント医師です。
金沢大学病院でネジール君が退院する前から研修を受け、そしてコソボに帰ってからも治療を続けている医師です。

日本で譲り受けた機械を見せてもらいました。それは8年以上経っても、まるで新品のように大事に使われていました。「この機械で救った患者は数知れません。もっと救わなければいけない。メンテナンスは徹底しています」と話してくれました。
~そして独立~
独立の瞬間とは、想像を超えたものでした。
コソボの議会で「平和な国をつくる」と独立宣言され、建物の外に走り出た私は、町が一変したのに驚きました。
かつて、犠牲者の写真しか目立たなかった通りに、埋め尽くさんばかりの人びとが居ました。・・・・歩くのもやっとの状態でした。
中継のために走った先の「グランドホテル」。
そこは、かつて紛争で様々な舞台となっていたホテル、そこが喜びに沸く人たちで埋まっていました。あふれる声、喜び、エネルギー。
住民の大半が「信じられない」と抱き合っていました。それは独立が「本当なんだ」とまるで自分達に言い聞かせているかのような光景でした。
コソボの外にいる家族に喜びを伝える人たちの電話が飛び交い、我々の電話回線もダウン。
中継も15分以上遅れる混乱(カオス)。(←後日、番組デスクの「寿命が縮まった」とのこと・・)。
しかし、混乱の中で「本当に独立したんだ」、と「音の大きさ」で実感したのを覚えています。
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そのあと、ネジール一家を訪ねました。

運転をしてくれたのは地元の同僚。
道端で市民にふるまわれた「独立のケーキ」、それを家族のために大事に車のトランクに保管したまま、彼は「この喜びをぜひ世界に伝えて欲しい」と車を片道4時間走らせてくれました。・・・本当ならば「二度とない瞬間」を、大事な家族と過ごしたかったはずです。
20代30代の若者達は多くが「虐殺で親しい人たちを亡くした」犠牲者でもありました。若い彼らこそ、歴史を鮮やかに覚えているというのが、アルバニア系住民・セルビア系住民双方に多く居るのが「事実」です。
さて。

独立を迎えたあと、一家は「踊り狂った」ようです。
そして深夜、お父さんと友人らは切々と語ってくれました。
「バルカンを分かるか」と。
何度も取材で聞いた言葉です。
それは、幾重にも民族や宗教が交差してきた場所での「生きる感覚」でした。
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コソボは、セルビア正教にとっては宗教上大事な場所であり、またアルバニア系住民にとっては安住したくて住み着いた場所。そこに紛争が重なり、泥沼化。さらに当時のミロシェビッチ大統領によって行われたアルバニア系住民の虐殺に対して国際社会は非難。そしてNATO軍の空爆。
ユーゴ内でセルビア、モンテネグロ、クロアチアと独立していきましたが、コソボはセルビアの中にありながら国際統治下に置かれてきました。「セルビアの中での独立」は、行き場を無くしたアルバニア系住民にとっては悲願なものの、ロシアやセルビアにとっては許されないものでした。
実際、独立後、セルビアでは米大使館が放火される場面や催涙ガスに遭遇、警察に囲まれたり、声高く「コソボはセルビアだ」とする集会を多く見ました。
<写真は走り去る若者と遭遇した、ベオグラードの米大使館前>
<そして、ベオグラードでの集会。「コソボはセルビアのものだ」の垂れ幕>

セルビアでは多くのエネルギーを感じました。ナショナリズム高揚、そしてそれを上回る「やりきれない」という空気・・・・・・.
独立の数日後、かつての大統領・ミロセビッチ氏の墓は人を避けるかのように、ありました。
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独立については、「もう待てない」というのがコソボの立場でした。
独立前に単独取材に応じたセイディウ大統領は穏やかな表情のまま、「長い歴史から歩みだしたい。独立を妨げることは誰にも出来ない」と強い口調で話していました。
またUNMIK(国連)の面々も口を揃え「今、動き出さないと、さらなる紛争を招く」と話しました。さもなければ・・・と殺し合いの続いてきた歴史の重さを聞きました。
そうして欧米の支援をもとにようやく迎えたコソボ独立でした。
その夜、「独立式典の花火」が映し出されたTVの前で、亡くした家族、友人の写真を抱えている人たちがアルバニア・セルビア双方に、多く居ました。
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独立の重みに加えて、感じたこと。
それは遠い国での日本の存在でもありました。
コソボのネジール君一家は、「私達は日本の人に支えてもらいました。あそこまで親切な人々はあまり居ません。落ち込んでいるときは商店街に買い物をしに連れて行ってくれ、図書館で本を読んでくれました。そんな心遣いに、どう恩返ししたらいいものか。息子も救ってくれました」と話していました。そんな気持ちがうまく伝わっていければ救いです。
そういえば我々は毎回、首都から片道4時間かけて一家を訪れました。
何も言っていないのに家庭料理をつくって待ってくれていました。家庭料理は、異国で心に染みました。



私も御礼日本食をつくりました。集めてきた材料は・・・・コメとしょうゆ、野菜にツナ缶。そこからチャーハン、ツナ入りオニギリという子供向けメニューと、卵焼きナスのお浸し、をつくりました。喜んで食べてくれました。

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再会した日、ある場所へと連れて行ってくれました。歩きながら、モスク(イスラム教)も教会(セルビア正教)も見える町で、いろいろなことを感じました。
「アルバニアのハンバーグを、ぜひ食べてもらいたい」と言われ、お父さんに店に連れて行かれました。イスラム教だというのもありますが、御礼をしたい人にはとことん御礼がしたい、というのがありました。「これは受け取ってください。それが我々の喜びでもあるんです」「こんな再会は普通、できないのだからそれを味わってください、また味わららせてください」、とのことでした。
最後の会計で、せめて分割しようとする私に、お父さんは「いいんです。本当に。私達が救われた命、それに比べたら、いくら支払っても足らないのですから」と繰り返しました。しかし「それは出来ない、どうしたらいいものか」と考えていると、ガズメント医師が私に「心は受け取ってください。でも別の形で返しましょう」と言いました。
そして。「今日、改めて感動しました。未来のために投資することを許してもらいたい」と話し、涙目で紙幣を差し出しました。「これは食事へのお礼では無く。ネジールの将来へのプレゼントです。」と。そして医師は「ネジール、何か欲しいものはあるのか?」という質問を投げかけました。
すると。ネジール君はしばらく黙り、「・・・出来れば、パソコンが欲しい。もし出来ればです。みんな持っているから」と口を開きました。父親の収入を気にして、絶対に今までは言うことのなかった言葉。その言葉が出たと同時に、ネジール君の目からは涙がこぼれ落ちました。「有難うございます・・」と泣いていました。手術でも滅多に泣かなかった少年が見せた涙。それは「義眼」からも流れていました。
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紛争は残酷で、解決できない問題が多くあります。
セルビア系住民の地域、そしてセルビアで取材していて、実に多くの事を感じました。
彼らの怒り、絶望。
実際、ネジール君と同じ年の子供をセルビア側でも取材しました。
「近寄るんじゃない」とのオーラをふりまいていた彼等に会ったのは、女性が叫ぶ集会でした。
彼らの大人びた顔つきは、忘れられません。

目の前で知り合いが殺された場面を語った若者が「大事なことは過去ではなく、未来です」と話していました。
ネジール君の義眼から流れた涙も、希望であってほしい、と願います。
冒頭の質問。
私は、、こう答えました。
「独立した国に生まれ育った私が、分かるというのはオコガマシイと思う。きっと、独立の重みは分かろうと思っても貴方達ほど分かることはできない。でも一生懸命、感じたことは伝えたいとおもう」と。・・・・・水で乾杯しながら「いったい今の日本に何が伝えられるのだろうか」、伝えられなかった幾つかの事への悔しさと共に、大きな課題を感じました。
今も課題がコソボでは「山積み」です。
独立の重み。「人」を通して見えたもの、それは日本にとって計り知れない、遠い話・・・なのかもしれません。しかし、遠いからこそ伝えたい。。。。。と思ってきました。
コソボ独立の際にコソボとセルビア、双方で見たものは、現実の中に生きようとする希望の力だと今も強く感じています。




ブッシュ大統領の訪問時以上という










私の身長は173cmで脚の長さも特に長くも短くもない日本人としては






